70歳代の女性です。
数年まえに車にはねられ、打撲、下肢の骨折などの怪我を負いました。
本人の言い分では、そのときを境に、季節のわかり目などに喘息発作が起こるようになったといいます。実際に発作により病院へ通院されています。
喘息といえば呼吸系の病気です。医学的に、事故と喘息の因果の説明は難しい。
東洋医学でも、説明しろといわれると難しいのですが、臨床現場しては、「そういうこともあるのでしょうね」と肯定的な感想を抱いています。
このケースの着眼点としては、骨折、打撲、手術痕などの古傷に、圧痛や冷えがないかを最初に調べます。
もしも異常があれば、それを処理する。呼吸器だとかの前提は関係ありません。このようなケースでは、そういうことが効果につながります。
次の着眼点として自律神経の働きを調整します。この場合、発作時には呼吸系の副交感神経の抑制を念頭にします。発作を起こしていない通常の時は、過剰興奮の系統を抑制するように治療します。
来年2月に、郡山市三穂田公民館で気功講座の講師依頼がありました。同地区の皆さんにお会いできることを楽しみにしています。
さて、私の講座では、太極拳や○○功などの動作を指導することはほとんどありません。
行うことは、気とは何かという概念の説明。そして体験を通して各々の解釈をしていただくこと。それが最重要と考えています。
気とは概念ですから、実態があるかどうかということは不明です。
無理やり、物理的エネルギーだとか波動だとかいう説明では、むしろ非科学的な感じになってしまいます。
現時点では、科学の立場で証明できないものなのです。
ですから、当初は、ひとつの考え方と捉えていただく。そして、たとえるなら音楽などのような、「芸術の力」だと考えていただく。
人が音楽を聞いて、感動したとか、癒されたとか、さまざまな変化をもたらすことができたとしも、それは音そのもの周波数や旋律の、物理的作用ではないでしょう。
その背景にある、いわばアートとしての部分に作用の本質がいる。
楽譜通りに正確に演奏してもだめで、つまりは、歌う人、演奏する人の、アートの部分が重要なのです。
これは、非言語的で、深いコミュニケーションです。
気とは、そういう分野だと思います。
講座の最初は、手に気を集めて、気の実感を体験する技法から入ります。
手に気があつまると手が温かく感じたり、むずむず、びりびりなど、さまざまな感覚が発生します。
そこで、初めての人は、「気とは温かい」と思ってしまうのですが、それは違うのです。
気の作用として温かいという感覚が発生したのであって、それは気の温度ではないし、気そのもの感じではないのです。気は直接感じることは出来ません。
気功の技法によって感覚が発生したり、その他の身体的変化が発生たりを通して、気を間接的に体験するわけです。
気功の技法により、意図的に身体感覚を発生できることは、セルフコントロールの上で、とても意味のあることです。
たとえば症状とは、身体感覚ですが、炎症や病変のように実態にあるものもあれば、たんなる感覚で、錯覚にも似た感覚である場合もあります。「気のせいでしょう」などという言葉は、まさに「実態のない錯覚」という意味でも使われますよね。
体調の感覚は、体に病気があるかないかを代弁してはいません。ただ単純に実感として感じがよいか悪いかの感覚を言っているに過ぎません。
我々の心身はそういう感覚に立脚して生活しているのですね。
ですから身体技法として感覚を操作できることは、心身に大きなインパクトをもたらすことが出来るのです。
気功講座は、そういうところの説明から入ります。
体に変調や苦痛があれば、よくなりたいと思うのは当然のことです。
しかし、それがどのくらい切実かについては、それぞれかなり差があります。
当院は予約制です。治りたい気持ちが切実な人は、治療に強い期待と動機を抱いていますから、時間に遅れるようなことや、予約を安易に変更するうようなことはほとんどありません。
しかし、大抵の方は、日常の他の都合が優先であり、治療はそれらの合間を見つけて受けているという感じです。
私としては、別にどちらでも構いません。そのような背景によって、治療内容に加減を加えるようなこともしておりません。しかし、より効果が期待できるのは、治療をより真剣に受け止めている方々でしょう。
人間とは不思議なもので、本人の動機、期待度、場面のセッティングなどが効果に影響をあたえます。
薬でも、プラセーボといって、まったく効かない砂糖を丸めたものでも、ある割合に効果がでることが知られています。真の薬でも、希少価値があり高価だったりすると、より効く傾向があるとも言われます。
つまり、本人がどのような心構えで治療を受けているかがとても重要なのです。
「友人にショッピングに誘われたので、予約を変更したい」
「行政が発行した施術費用助成券を使い切ったから、あとは来年度にする」
「治りたい」といってはいても、その程度のモチベーションしか垣間見れないとしたら、いかがなものでしょう。そしてそれは、本人の無意識が決めていることです。あまり切実ではないといっているのと同じです。
より良い治療を受けたいと思うなら、受ける「構え」を考える必要があるのではないでしょうか。
どんなつもりで受けても費用は同等なのですから、より価値を高めて受けていただけたほうが得策だと思います。
このカテゴリに関しては、興味のない方にはきっと意味不明。難解です。とばしてください。身体技法に素養のある方は、いちど覗いてみて下さい。
美術館でピカソ展をみていたときのこと。
その日は朝から頭痛を感じていた。私は、絵をじっくり鑑賞するような趣味はない。スライドショーをみるように、テンポ良く次に移る。
そうやって、いくつもの作品に前を通り過ぎ、ある作品の前に来たときに、私は自分の変化に気がついた。ある絵を見た瞬間に頭痛が治ったのである。
とても気に入ったとか、感動したとか、そんな印象はない。しかし、体は何かに反応している。
こういうことも「裡(なか)が動く」というのではないか。そのときから私の内面では、漠然と考えが展開している。
鍼灸の治療は、気血を調整するためにおこうわけであるから気功法である。鍼灸師は哲学的「気」の概念と向かい合わなければならない。
内気を動かすとはどういうことか。気を調整するということはどういうことか。自分なりの探求が続いている。模索のなかでの糸口は、日本の伝統動作、意識世界のあり方からのアプローチである。
茶道でも、能楽でも、古武道でも、舞踊でも、何でも良いのだが、それらの所作、意識の集中のあり方に、心身の裡なるものを操り、統一するヒントが含まれていると、みたてている。
>>集中の質 意識のチャンネル
私たちの意識には、いくつものモード チャンネルがあり、それを適時に切り替えて、ある意識世界に入ってゆく。
同じ自己であっても、ある瞬間は「母」のモードであり、「井戸端会議」モードであり、「妻」であるモードであり、と意識の設定は変容する。意識の変容がなければ、我々は子孫を残す行為すら不快でできないかもしれない。くすぐったかったり、痛かったりする刺激が快感に変わるのは、刺激という外的要素によるものではなく、意識の変容によるものである。
では、手始めに、治療をする側にとっての意識のあり方とはどのようにあるべきだろうか。
この場合の意図は、「スタイル」としてのあるべき姿ではなく、内気を動かす前提としてのあり方を考慮している。感受性のチューニングのようなニュアンスに近い。
現在のところ、自分が至っているあり方とは、安定した主観状態を均一に再現できる素養というところだろうか。例えるなら、弓道において弓を引くときの意識統一に似ているかもしれない。
これから一つの身体(患者)と向かいあうときに、こちらの意識に均一な再現性がなければ、その度に、相手の身体からうける印象が変ってしまうだろう。
そして、この意識のあり方こそ、その人なりの「ワールド」だと考ている。この意識のあり方により、私では私のワールドが始まる。
ちなみに、鍼灸における様々な方法論を追試していると、案外再現性がないと思うことはないだろうか。
これは、方法論ばかりを重視して、前提となる重要な要素を軽視しているからだと思う。つまり、ある方法を成功させるには、それを考案した人の意識モードを真似る必要性がある。合気道等における技の極意の習得に似ているのかもしれない。表面技術ではなく、意識の捌き方が重要なのである。
意識のあり方の次に、もう一つ重要なのは、主観性である。医学とは客観性が大切だと言われているが、それは科学としての医学のあり方である。おそらく気の世界の医学は科学ではなく、むしろ「アート」に近い。よって身体IQが重要だと考える。
身体IQとは、内的身体情報をいかに認識し、操れるかということであり、これは芸術、スポーツの核心能力と言える。これは主観の世界である。
ピカソの絵と向かい合ったら、頭痛が治った。
では、いまこの人と向かいあったら、自分にはどんな内的変化が発生するのか。相手は、どんなインパクトをもたらすのか。それを主観で観察すること。観察すべきは、相手(外)ではなく、自身の内動である。
食養生について様々な方法があます。
マクロビが良いとか、粗食が良いとか、どれだけ体に良いかが尺度のようですが、私にはあまり関心がありません。体に良いとか悪いとかいう基準で食を考えることに意味を感じないからです。
依りかからない。偏らない。
余計な概念から解放されていたほうがより健康だと考えます。
健康法、養生法、なんでもそうですが、工夫をして「やっと健康です」というならば、工夫をしないと不健康の裏返しです。工夫によってどうにか保つ健康なら、結局のところ不健康だと思っています。
私は、自分が美味しいと思うものを食べたい。それだけです。それは、必ずしも贅沢や美食を言っているのではありません。野菜でも肉でも魚でも、美味しいと思うものをいただきたい。
そのために、体が必要とするものを「美味しい」と思える感覚を磨き、自身の感覚を信じる。
玄米も食べます。ただ、体に良いと思っては食べない。今日は、こういうものが美味しい体の状態なのだと思うことはありますし、美味しく感じないときは食べないようにする。
無農薬有機栽培だという能書きも、食べて美味しいと思えないなら、私には意味がない。もしも、美味しいと思えば、価格は関係ない。美味しい方が良いではないですか。
私にとっての食養生とはこのようなものです。